アニメ艦これ大井問題への批判3・百合の可能性を狭める者たち

艦これで好きと胸を張って言えるのはきたあぶとはぎやまと金榛とながむつとちとちよと張由良とふそやまとビスプリです。私しか主張していないカップリングとして山城×明石というのもあります。

では


に続き、

  1. アニメの大井がゲームの大井と人格が違っているように思えるのは、ゲームでは提督相手に話しているが、アニメでは艦娘たち、吹雪を相手に話しているからである(話している相手が違うなら態度が違うのは当たり前)
  2. ガチレズ大井botがアニメをはじめとした公式に影響を与えた事実はない。が、彼女の偏見に満ちた発言、とくにアンチヘテロ・ミサンドリ―的な発言を無邪気に受け入れることはできない。そして、悪いレズは叩かれるが、ガチレズ大井botはいいレズだから許される、と考えるべきではない(ガチレズ大井bot批判)
  3. 「男性が想像するレズ像だから本物の百合ではない」「変人枠だから本物の百合ではない」「他のキャラに冷たく好きなキャラにだけべたべたするのは百合ではない」というけれど、それはあなたの中の百合と違うだけで、百合ジャンルにはどんな百合をも受け入れる可能性がある(百合の可能性を狭める者たち)

の項目3、最終項目を見ていこう。今回からは艦これのみならず、百合全体の話をしていくため、主語が大きい話になる。お気をつけて。

百合の可能性を狭める者たち


三度このツイートを取り上げることにする。
アニメの大井は、「北上に夢中で、他の艦娘には牙を剝く」キャラクタとして描かれていた。このような、ひとりの女の子だけに夢中で他の人間に牙を剝く女の子は、大井のみならず百合界隈の一部では、「本当の百合ではない」と忌み嫌われている。
ここで思いだされるのが、で取り上げた、「クレイジーサイコレズ」という言葉だ。幸い、この言葉を与えられる(もしくは投げつけられる)キャラクタは、なんとか偽物でない「レズ」としては認められているらしい(皮肉です)。ただし、彼女たちの感情はクレイジーでサイコ、我々健全な視聴者、健全な百合好きとしては正しい百合と分けて呼ぶ必要がある。だから「クレイジーサイコレズ」というわけでありまして――。
「本当の百合」という言葉はくせ者である。
もうひとつ、ガチレズ大井botのツイートを引こう。
「正し」い「百合」というものがこのツイートには登場する。やはり百合界隈の一部で、毎日のように聞かれる言葉である。しかし、「恋人繋ぎをして体を密着させた女の子二人がこちらを見ている」という構図を、百合として好む人間がいた場合、彼もしくは彼女は、正しい百合好きではないのだろうか。
いったい、正しい百合、とはなんだろう。たとえあ、「ひとりの男の子だけに夢中で、他のひとには牙を剝く女の子」がいたとして、果たして彼女の恋は、偽物だと呼ばれるのだろうか。彼女が二次元の登場人物だった場合はどうだろう、翻って、三次元の知人だった場合はどうだろうか。
「本物の百合ではない」「本物のレズビアンではない」「本物の恋愛ではない」これらの言葉、視聴者――試聴する、見ているだけの者たち――はひどく安全な場所から、二次元のキャラクタに投げつけることができる。しかし、誰かの恋が本物かどうか、などという判別をすることが、本当に可能なのだろうか?誰かの真剣な恋を、本物ではない、と簡単に決めつけてあざ笑ってはいないだろうか。
誰かの真剣な感情について、安全な場所から「それは本物ではない」と言い切る行為が、私には、ひどく傲慢なものに思えて仕方がない。

***

とはいえ、「正しくない百合」は百合だと認められているだけましなのかもしれない。
百合界隈の一部では、自らの好みから外れた百合作品を、百合ではないと言いきる行為が常態になっている。百合の定義論や百合がいかにレズと違うか論は、ライトノベルの定義論以上の頻度で百合界隈を騒がせている。また、「百合を性的対象として見る男性」、はっきり言ってしまえば百合を自慰の対象とする男性へのミサンドリーは常識となっている。ガチレズ大井botとアニメ大井問題 - Togetterまとめのまとめでもそんなツイートがあった。


製作者の生物上の性別で作り出される百合の性質が変わる、と未だに百合界隈のどこかでは信じられているのだ。マイルドに言えば、「男性の作る百合は女性の作る百合と違う」ということになるだろうか。他にも、「思春期の少女同士のあいだの感情は百合ではない」偏見なども(特に同性愛者の百合愛好者の間で)根強いように思う。加えて、「ハーレムもので百合属性を持つヒロインは後に男を好きになるので、彼女の感情は本物ではない」、というぞっとするような意見までがまかり通っている。
私見だが、百合界隈では、「ある作品は百合である」と言うことは、読者側から作品側へ与えられる、勲章のようなものである。翻せば、「百合ではない」とするのは罵倒だ。中には、話し手の好みでないというだけで、百合ではないと認定される作品も少なくない。百合界隈の多数には、「私の好みの百合ではない」という言葉は存在しない。「私にとっての百合」=「百合の定義」という思い込みが蔓延しているのだ。
私は、個人的に、百合は「女の子どうしの間に交わされる全ての感情」だと思っている。そして、読者は、登場人物たちの感情を勝手に、真剣だ、真剣ではない、と判断するべきではないし、「自分にとって百合である」「自分にとっては百合ではない」と言うことはできない、と思っている。なにかが百合でない、と判断するよりは、なにかが百合である、と判断したほうが、世の中は百合にあふれているように思えて幸せな気持ちになれるからだ。
だがこれは、今の百合界隈では、少数派意見、ということになるのだろう。
たぶん、百合の定義はこれからますます狭くなっていくし、「百合ではない」という判断基準は、そのうち、良質な百合の誕生を阻害するまでになるだろう。そんな悲観的な考え方を、どうしても頭の中からぬぐい去れないのだ。